人は、言葉で思考する生き物。
「車」といったところで、僕が頭の中に描く「車」と、他人のそれは異なる。
比較的「車」の言葉の意味は狭いので、ある程度は一致する。
そこで完全一致(に近づけようと)すれば、違うというものを一つ一つ消去していくしかない。
いい変えれば、一つの言葉がほかの言葉とどのような関係にあるかを探さなければいけない。
ということは、一人対一人以上の不特定での言葉の意味は、「赤でない」+「車」、
「ガソリンで動く」+「車」、というように「差異」で意味をすり合わせることになる。
言葉は、「差異」によって意味をなし、言葉自体に意味はない。
フェルディナン・ド・ソシュールの言語思想。
平たく言えば、「車」という言葉を知らない人に、「車」の意味を説明しようとすると
「タイヤがある」「運転する」「ガソリンで動く」「4人くらい乗れちゃう」とか説明する訳で、
この説明が「差異」であって、他との違い、つまり「意味」を与えている。
特定の言葉に対する「差異」の蓄積によって「知識」が追加され、大人になっていくのさ。
大人かどうかはさておき、仕事柄アートディレクションなんかをする機会がある訳だけど、
完成したモノなんかも「差異」で意味が割り当てられて成立していたりするわけで、
言葉のあるところどこにでも「差異」が存在し、意味が割り当てられている。
深く考えれば考えるほど、形而上学の世界を彷徨ってしまう。
僕の宇宙(天文学)好きは、そこにあるのかも。